増補改訂版
咸臨丸の絆
―軍艦奉行木村摂津守と福沢諭吉
福沢諭吉は木村摂津守の計らいにより咸臨丸に乗船することが出来た。このときアメリカの地を踏まなければ、後の福沢はなかったかもしれない。あまり知られていない咸臨丸での二人の交流に焦点を当てるとともに、下船後も続いた深い親交について紹介する。初版発行後に発見された文献や史料、そして木村家が語り伝えてきた新たな逸話を盛り込んだ増補改訂版。
書籍データ
発行年月 | 2019年2月 |
判型 | 四六 |
ページ数 | 272ページ |
定価 | 1,430円(税込) |
ISBNコード | 978-4-303-63434-6 |
概要
慶応義塾大学の創始者・福沢諭吉は、二十七歳のとき、徳川幕府の軍艦奉行・木村摂津守喜毅(号は「芥舟」)に願い出て咸臨丸に乗船、アメリカへ渡ることができたことから、木村喜毅を終生「木村さま」として報恩の念を持ち続け、木村喜毅は四歳年下の福沢諭吉の才能と能力を認め、終生「福沢先生」と敬いました。
もし、木村喜毅が明治新政府の要請に応じて出仕していれば、二人の間の逸話も後世にいろいろと紹介されたことだと思います。だが、木村喜毅は幕臣としての生涯に徹し、徳川幕府の終焉に合わせて隠居して、歴史の表舞台から姿を消しました。そのため、木村家で代々語り伝えられてきた福沢諭吉との生涯の固い絆と交友秘話はあまり知られておりません。
幸いなことに、筆者の身内が木村芥舟の次女「清」の孫および曾孫という関係にあることから、清が生前孫に語り聞かせた「太平洋往路航海における咸臨丸船上での事件や出来事」と、帰国後の「木村喜毅と福沢諭吉の生涯に亘る深い親交の逸話」を知ることができました。
私は、これらを踏まえて平成二十六年に『咸臨丸の絆・軍艦奉行木村摂津守と福沢諭吉』という作品を発表しましたが、今回、その後に発見した新たな文献や史料と、前述の清や木村一族が語り伝えてきた新出の「逸話」を新しく盛り込み、物語を「咸臨丸の太平洋横断航海の全容」と「木村摂津守と福沢諭吉の終生に亘る絆」に絞り込み、また、前作品に修正、削除と加筆を施し、増補改訂版を著しました。
本年、平成三十年は明治維新百五十年に当たる年です。徳川時代末期に、往路航海は十一名のアメリカ人船員の支援を受けつつも、アメリカ・サンフランシスコ間の太平洋横断航海という壮挙を成し遂げた幕末軍艦「咸臨丸」乗組員の人たちの奮闘と努力、そして、近代日本国海軍の基礎を築いた咸臨丸の人びとの栄光と功績、そして名誉を、読者の皆様に知っていただければ、作者としてこの上もない喜びでございます。
幕府軍艦咸臨丸はその後、文久元年(一八六一)には、小笠原諸島の領有権確保のため、小笠原に派遣され、父島・母島で詳しい調査・測量を行い、日本はその調査に基づいて諸外国に日本の領有権を通告するなど、数々の任務を果たしたのち、老船となり、ボイラーを外されて輸送船とされてしまいました。
そして、輸送船として就役中、明治四年(一八七一)九月十九日に、北海道木古内町泉沢で暴風雨に遭遇、更木岬沖で破船、沈没。その生涯を閉じました。
私、そして咸臨丸に強い愛着を持つ人たちは、激動の幕末維新に栄光と悲劇の軌跡を残した咸臨丸が今も眠る更木沖の海底で、咸臨丸の船体の海中捜査を実施して存在を見つけ、船の存在が確認できた暁には、咸臨丸の引き上げが実現されることを強く願っております。(「はじめに」より)
目次
第一章 咸臨丸、アメリカへ往く
一 咸臨丸渡米の経緯と準備
二 福沢諭吉の乗船実現
三 咸臨丸乗船員の決定
四 咸臨丸の往路航海
五 咸臨丸、サンフランシスコに到る
六 サンフランシスコにて
第二章 咸臨丸、帰還す
一 木村摂津守の無念
二 咸臨丸の出港
三 咸臨丸、ハワイに寄港― 木村摂津守の観察記録
四 ハワイにて
五 木村摂津守と福沢諭吉の会話
六 咸臨丸還る
第三章 その後の木村摂津守と福沢諭吉
一 福沢諭吉の激怒
二 今泉みねの話
三 木村摂津守と福沢諭吉の最後の会話
木村摂津守の家族